歴史科学の問題点を深堀!
こんにちは。管理人のヒロです。
世界の成り立ちという視点から神様の存在について考える「学校では教えてくれない創造論シリーズ」の4回目となる今日は、「進化論VS創造論は、科学VS宗教なのか Part.3」 と題して「歴史科学・進化論の問題点」というテーマでご一緒に考えていきたいと思います。
まずは、前回の内容を振り返ってみましょう。
前回のまとめ
前回のポイントは、以下の3つでした。
①進化論は、実験科学ではなく、過去を調査対象とする歴史科学であるということ
②歴史科学は、実験科学と比べて客観性に劣る主観的な科学であるということ
③実験科学と歴史科学を混同せず、その信頼性の違いを認識する必要があるということ
前回までをお読みになった方の中には、こう思われた方もいらっしゃるかもしれません。
「進化論が、主観的な科学であることの一体何が問題なのか。科学であることに変わりはないのだから、宗教じみた作り話の創造論に比べたら、進化論の方がよっぽどマシじゃないか。」
果たして、実験科学と歴史科学の違いは、僅かなものなのでしょうか。
今日は、「科学に主観が入ると具体的にどういった問題が起こるのか。」という視点から、歴史科学・進化論の問題点について深堀してみたいと思います。ご一緒に考えていきましょう。
思い込みが引き起こすこと
主観の1つとして挙げられるのが、人間の思い込みです。
思い込みが、人の目をくらませてしまうことは、日常生活でもよくあります。
昔、担任していたクラスに、いたずらばかりする少年がいました。
その子が誰かに近づくのを見て「きっとまたいたずらするつもりだ。」と思い、何もしていないのに思わず注意しました。
しかし、その時、その子はただ困っていた友達を手伝おうとしていただけだったと分かり、迂闊にも注意をしてしまった自分を反省したことがありました。
みなさんにも、普段は、判断する前に、丁寧によく観察したり、よく考えたりするのに、うっかり思い込みで行動してしまった経験が、1度は思い当たるのではないでしょうか。
実は、進化の証拠とされているものの中にも、思い込んでいるだけのものが含まれています。
今日は、その実例を1つご紹介したいと思います。
相同器官は、進化の証拠?
皆さん、この図をご覧になったことはありますか?
これは、相同器官といい、進化の証拠の1つとして、中学校の理科の教科書にもよく紹介されています。
人間の腕の部分の骨は、他の多くの動物とよく似た構造になっているので、人間も含め、全ての動物は共通の祖先から誕生したことが分かるというのです。
ここで、一度立ち止まってよく考えてみて欲しいんですが、本当にそう言えるでしょうか。
確かによく似ていますが、だからと言って、これらの生き物が皆共通の祖先から誕生したと言い切れるでしょうか?
似ている理由は、「共通の祖先から誕生したから」なのか
「相同器官は進化の証拠である。」
この説は、「似ていることは、元は1つであったことの証拠だ」という考え方がベースになっています。
私は、ここに論理の飛躍があると考えています。
なぜなら、実際の世界に当てはめて考えてみると、必ずしもそうとは言えないと思うからです。
似ている=?
例えば、似ている2台の車が道路を走っていたとします。
それを見た友人のAさんが、「あの2台の車が似ているのは、昔は1つの車種だったからで、そこから別々の車種へと別れていったんだよ。」と言ったとします。
一方で、もう一人の友人Bさんは、「あの2台が似ているのは、同じメーカーが造ったからだよ。」と言いました。
さて、あなたは、どちらの意見に納得するでしょうか。
私は、Bさんの意見の方により説得力を感じます。
車だけでなく、パソコンや冷蔵庫などの電気製品を始め、絵画や彫像物といった芸術作品に至るまで、同じメーカーや作者による製品や作品は、他の会社や他の人が作ったものと比べ、似ている点が多いことは、誰しも認めることではないでしょうか。
つまり、似ていることは、元が1つであったことの証拠ではなく、同じ作者によって造られたことの証拠とも考えられるわけです。
相同器官は、一人のクリエイターがいることの証拠にもなる
あなたが、もし、仮に相同器官について習う前に、創造論について学んでいたとします。
その上で、先生が、相同器官の図を見せながらこう言ったとします。
「これらが似ているのは、どうしてなのか分かるかな?同じクリエイターによって造られたからなんだよ。」と。
先ほど述べたように、作者が同じもの同士には、似ているのですから、それは、それで筋の通った話になりますよね。
つまり、この相同器官は、本来、進化論と創造論のどちらの証拠にもなり得るものなのです。
では、何が理由で、どちらの証拠かが決まってくるのでしょうか。
自分の世界観に左右されてしまう人間の思考
それは、その人の前提、世界観、平たく言えば思い込みです。
何を隠そう私自身、教壇に立っていたころは何の疑いもなく、自信をもって「相同器官は進化の証拠だよ。」と生徒に教えていました。
しかし、創造論を学び、どうしてあの時疑問に思わなかったのかと悩みました。
そして、1つ気がついたことがありました。
それは、既に「進化があった」と学校で教えられていたからだ、そう思い込んでいたからだとわかったのです。
つまり、進化があったことが全ての前提となってしまっていたので、相同器官は進化の証拠だという説に納得していたのです。
つまり、既に進化論を受け入れ「進化があった」と思っている場合には、相同器官は進化論の証拠に見えます。
しかし、「この世界は神が創造した」と思っている場合、相同器官は、紛れもない創造論の証拠として見えてくるのです。
このように、「どちらの世界観でその証拠を見ているのか」によって、まるで見え方が違ってくるわけです。
歴史科学のもつ主観性という罠
この相同器官の例1つをとっても、人間の思い込みが入っている場合、科学的に研究されているものでも、まるで結果が変わってきてしまうことが分かります。
これまで述べてきたように、実験科学では、これは絶対に起こり得ません。
なぜなら、複数人による度重なる実験や観察によって、一人一人の研究者がもつ個人的な主観は、全て排除され、客観的事実だけが結果として残されるようになっているからです。
しかし、実験や観察ができない過去を取り扱う歴史科学では、「進化があった」「神が世界を創造した」という、研究者個人の思想が色濃く反映されたまま、それがあたかも客観的な事実かのように「科学」として語られているのです。
私は、この歴史科学がもつ危険な特徴のことを「歴史科学のもつ主観性の罠」と呼びたいと思います。
この罠にかかると、聞いている人は、どこまでが客観的な事実で、どこからが人の思いや考えに過ぎないのかが分からなくなってしまい、どれだけ時間をかけて学んでも、真実にたどりつくことが出来なくなってしまうという恐ろしいものです。
ですから、この「歴史科学における主観性の罠」にかからないために、気を付けていかなくてはならないことについて、ご一緒に考えてみましょう。
主観性の罠にかからないために~進化メガネと創造メガネ~
するべきことは、大きく分けて2つあります。
まず第一に、今自分がどちらの世界観を持っているのかを意識することが大切になります。
言い換えれば、「自分は、今、進化メガネと創造メガネ、どちらのメガネをかけて世界を見ているか」と自分自身に問うことです。
そうすることにより、それまで絶対的だった自分の世界観が、実は1つの見方に過ぎないものだと客観視することができるようになります。
あなたは、今どちらのメガネをかけて世界を見ているでしょうか。
どちらがよく見える?進化メガネと創造メガネ
そして、第二に、両方のメガネを試し、どちらが世界が、よりはっきりと見えるメガネなのか比べてみていただきたいのです。
残念ながら、学校では進化論しか教わらないので、学校教育を受けた多くの人の世界観は進化論です。
ですから、相同器官は進化の証拠だと言われても、何の疑問も持たずに受け入れられるという仕組みになっています。
もし、学校で両方の世界観を習っていたら、あなたは相同器官をどちらの証拠だと考えたと思いますか。
そして、相同器官だけに止まらず、それぞれのメガネをかけて世界中のありとあらゆるものを見渡し、どちらのメガネをかけたときに、世界がよりはっきりと見えてくるのかを試してみていただきたいと思うのです。
綺麗な花々、夜空に輝く星々、かわいい動物たち、果てしなく続く大空、そして驚くべき機能的な美しさを備えた私たちの体とは、今確かに存在します。
これらものが、偶然によってできたのでしょうか。
それとも、人間より英知ある存在が造ったのでしょうか。
この問いに答えられる人というのは、世界をよく観察し、どちらがよ、より現実世界のあり様と整合性が高いのか検討してみたことがある人だけだと私は思うのです。
今日のまとめ
①歴史科学である進化論も創造論も、研究者個人のもつ世界観が、その結果に影響している。
②世間一般では、進化という世界観だけが広められ、それが「科学」だと考えられている。
③進化と創造、両方の世界観で自然界を観察し、より整合性の高いものは、どちらか検討することが大切
次回予告~歴史科学の方法をご紹介~
いかがだったでしょうか。歴史科学が、実験科学とは全く別物であることがお分かりいただけたのではないかと思います。そして、進化論と創造論は、どちらが一方だけが科学で、どちらが一方だけが宗教なのではなく、どちらも世界観であり、全く違う世界観同士のぶつかり合いというのが、進化論VS創造論の本質だと思います。
ここまで読んでいただいたみなさんの中には、こんな疑問をおもちの方がいらっしゃるかもしれません。
「あなたの言うことがその通りなら、歴史科学を研究する意味は何なのか。過去のことは実験も観察もできないのだし、現在見ているものはどちらの証拠ともなり得るのだから、結局どちらが真実かなんてわかりっこないということだ。何も明らかにすることができない歴史科学になど取り組む価値はない。」と。
果たして、歴史科学は何の役にも立たないものなのでしょうか。自然科学の方法によって、過去を知るということは、全く不可能な話なのでしょうか。
次回、歴史科学の研究者達が、どのようにして真実を見つけようとしているのか、歴史科学の方法とは一体どのようなものなのかについてご一緒に考えていきます。最後までお読みくださりありがとうございました。
