こんにちは。
管理人のヒロです。
前回、「死について考える~前編~」の記事を書いてから、早5か月が過ぎてしまいました。
中途半端なところで長らくお待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。
みなさんは、いかがお過ごしでしたでしょうか。
私は、3月に20回目となる母の命日を迎えました。
そんなに長い年月が経ったとは思えない程、当時の事は今でも鮮明に覚えています。
今日は、「死について考える~後編~」ということで、まず母が亡くなった時のことをみなさんにシェアさせていただき、現実の死とはどんなものか、前編からさらに考察を深めていきたいと思います。
そのうえで、前回予告した通り、クリスチャンが死についてどのように考えているのかをご紹介したいと思います。
最後までお付き合いのほど、よろしくお願いします。
母の死を通して
20年前の記憶
2005年3月-
私は、北海道教育大学の学生として北海道旭川市に住んでいました。
4年間の学士課程を終え、4月からは故郷である札幌に戻り、小学校の教員として働くことが決まっていました。
卒業から数日経った日の昼下がり、私は友達と駅前のファーストフード店でお昼ご飯を食べていました。
すると、突然札幌に住む姉から電話があり、こう告げられたのです。
「お母さんがプールで泳いでいる間に気分が悪くなって、救急車で搬送されたから今すぐ病院に向かうように。」
私は、耳を疑いました。
母はビギナーではなく、既に10年以上水泳を続けていましたが、一度も具合が悪くなったことなどありませんでした。
それなのに、救急搬送されるような事態になっているとは一体どういうことなのか全くわかりませんでした。
状況がつかめないまま電話を切り、友人に急用ができたことを告げすぐさま駅へと向かいました。
飛び乗った電車の中、私は一人卒業式の日のことを思い返していました。
卒業式に参列した母の胸中
この日は、両親が揃って札幌から駆けつけてくれました。
母の笑顔には、単に息子が大学卒業を迎えた喜びだけでなく、様々な思いが含まれていたことだろうと思います。
なかでも、一番大きかったのは安堵感ではなかったかと思います。
私の家族は、父、母、姉の4人家族でした。
2つ上の姉は既に社会人として立派に働いていました。
父もまた、長年勤めあげた会社をあと数日で退職し、仕事で忙しかった毎日を終えようとしていました。
そして、私も就職が決まり大学を卒業ー。
これまで専業主婦として、いつも家族を支える側に回り、自分のことより家族のことを優先して生きてきた母。
そんな彼女の心には、手塩にかけて育ててきた子どもたちが巣立っていく一抹の寂しさと共に、長距離マラソンを完走したときのような大きな充足感があったことと思います。
また、父と二人、自分たちのために時間を使える日々が待っていることへの期待感も大きかったことでしょう。
式の後、両親は、私がお世話になった大学教授に頭を下げ、私にこう言い残していきました。
「卒業おめでとう。また札幌でね。」
大学時代、実家に帰れば、いつも食べきれないぐらいのご馳走を用意して待っていてくれた母からの、この短い一言から、4年ぶりに一緒に暮らせることを心から楽しみにしてくれている母の気持ちが十分に伝わってきました。
入学・入社などで新生活を始める時に抱く、新しい人生への希望に満ちた思いにも似た、母にとって感慨深い卒業式であったのではないかと思います。
あれから、わずか数日後。
今、全く予期せぬ事態が起こっていました。
私は一人、なかなか札幌に到着しないことへただただ焦りと不安を感じていました。
無情な結末
札幌の病院では、既に父と姉が待っており、一緒に医師からの説明を受けました。
病名は、急性大動脈解離。
心臓から出る大動脈の血管が裂けることで、全身への血流が止まり、もし放置すれば死に至る恐ろしい病気です。
「これからすぐに手術を行いますが、命が助かる見込みは、50%です。」
医師の言葉に、頭が真っ白になりました。
手術室に運ばれていく母に、駆けつけた母の実兄が「静子!」と名前を呼びました。
母は、「お兄ちゃん!」と泣きつくような精一杯の声で答え手術室へと入っていきました。
何もかもが、まるで夢の中の出来事のように思えました。
母は57歳で、過去に大きな病気やケガは一度もなく、心身ともに健康、水泳と絵画が趣味で明るく社交的な性格、友人も多い人でした。
たった数日前に、あんなに嬉しそうに卒業式に参列していた母がなぜ今生死の境をさまよっているのか。
人生には、このような「一体なぜなのか。」と問いかけたくなるような瞬間が誰にでもあるのだと思います。
大手術の甲斐もなく、母の容態はどんどんと悪化していきました。
もはや助かる見込みが失われつつあった時、家族だけに母との面会の機会が与えられました。
「これが最後になるのか、いや、そんなはずはない。」
意識のない母に向かって何度も話しかけましたが、応答はありませんでした。
奇跡の回復を待ち続けた長く苦しい数日間の後、母は息を引き取りました。
これが、20年前の3月に私が体験した出来事でした。
死は、突然やってくる
母が亡くなるまで、私は自分が死ぬことを遠い未来のこととして思い描いていました。
年をとって、だんだんとゆっくりと死に向かって行くのだと思い込んでいました。
しかし、現実は違ったのです。
1か月後、いや一週間後、いや明日、数時間後、数十分後にも私の人生は終わりを迎えることになる可能性があると分かったのです。
2011年3月11日に起こった東日本大震災では、地震と津波によって、平穏な日々を送っていた2万人以上の人の命が一度に失われました。
災害、交通事故、急な病、殺人事件、こうしたニュースを見ない日はなく、何の前触れもなく人の命が失われるようなことが事実毎日起こっています。
人の命は、それほどに儚いものです。
それでも、私たちは、「自分にはそのようなことは起こらない。」「まさか今日、自分が、大切なあの人が死ぬなんてことはないだろう。」と高を括ってしまいますが、今日一日分の命を保証するものは、誰ももっていないのだということを母の死を通して知りました。
いつその人に「死」がやってくるかは誰にもわかりません。
ですから、「死」について考えることを先延ばしにしてはならないのだと思います。
年齢や健康状態に関係なく、「死とは何か」真剣に向き合うべき時は、今なんだと思います。
変わらない母への思い
母が亡くなってから10日程後、私は何事もなかったかのように、札幌で小学校教員として働き始めました。
そして、初任給で買った母へのプレゼントのネックレスを仏壇に供えました。
愛情をかけて育ててもらった、せめてもの恩返しのつもりでした。
何も親孝行してあげられなかった自分を責める心が少しは楽になるかと思いましたが、私の心は癒されませんでした。
私が望んでいたことは、ただ1つでした。
「もう一度だけでいいから、母に直接会って心からの感謝を伝えたい。」
愛する家族、友人、ペットを失くしたときに誰もが思う「あの人に、あの子にもう一度だけ会いたい」という願いは、どれだけ月日が経とうとも、決して変わらないものだと思います。
物なら失くしても、新しい物を買うことができます。
しかし、唯一無二のかけがえのない存在、世界にただ一人しかいないその人を亡くした悲しみというものは、他では決して癒せないと思います。
ある日、声も見た目も母にそっくりな人が、私の目の前に現れたとしても、決してその人は母ではありません。
ただ母本人と会うことでしか、その悲しみは癒されないのです。
もし、あなたが、大切な人を失って悲しんでいる友人に「あの人にもう一度天国で会えるかな?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか。
「もう一度会えるよ。」と確信をもって言えるでしょうか。
その人を励ますために、希望的観測を伝える他ないように思えてしまいます。
私も昔はそうでした。
しかし、今は違います。
叶う見込みのあることとして、確信をもって言えます。
「死後の世界は存在し、亡くなった母ともう一度会える可能性がある」
私に、この揺るがない確信を与えたのは他でもなく聖書です。
このように断言できるだけのはっきりとした根拠を聖書の中に見つけたのです。
では、後半聖書にどんなことが書かれているのか、クリスチャンがもつ死生観についてご一緒に見ていきたいと思います。
クリスチャンの死生観
聖書における「死」とは何か
みなさんは、お葬式などで亡くなった方と対面したことがありますか?
もはや笑うことも話すこともなく、冷たく動かなくなってしまったその姿を見て、どんなことをお感じになるでしょう?
私は、亡くなった母を目の前にした時「母は、今どこにいるのだろう。」と思いました。
体はそこにあっても、「母がここにいる。」という母の存在をもはや感じることができなかったのです。
「母は体から離れたんだ。この体の中ではない、どこかに母はいる。」
直感的にそう思ったのです。
聖書にもこのように書かれています。
「彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき・・・」(創世記35章 18節)
これは、ラケルという女性が、待望の第二子を産もうとするものの、難産のために死んでしまうという場面ですが、彼女のたましいが肉体から離れ去ろうとしたと描写されています。
つまり、聖書が教える「死」とは、その人のたましいが体から離れること、「肉体とたましいの分離」なのです。
では、「たましい」とは一体何なのでしょうか。
たましいとは、自分
たましいとは、その人の心や精神といったその人の内面的かつ本質的な部分と言えます。
普段使いの言葉で言えば、「自分」です。
肉体は、この自分というたましいを入れておくための箱のようなものです。
これは、プレゼントの構造と非常によく似ています。
誰かにプレゼントを贈るとき、包装したものを渡しますよね。
箱に入れたり、紙で包んだりすることで、プレゼントを守ったり、見栄えを良くしたりしますから、包装は重要です。
ですが、包装と中身のどちらの方が大切かと問われれば、それは当然中身の方ですよね。
中身がプレゼントそのものだからです。
同じように、肉体も大切ですが、最も重要な部分、本質であるその人自身は、たましいであると聖書は教えています。
このたましい、つまりその人自身が肉体から離れていくので、その人はもはや人と語り合ったり、食べたり、歩いたりすることができなくなってしまうというのです。
肉体は限りあるもので、いずれ衰え朽ち果てていきますが、すべての人のたましいは場所を変えて永遠に存在し続けると聖書は語っています。
つまり、あなたが亡くなったと思っている人は、肉体から離れただけで、実質まだ生きていると聖書は教えているのです!
そしてもう1つ、聖書が「死」について教えていることがあります。
それは、その後にやってくる「本当の死」というものの存在です。
それが、どういうものか聖書から見ていきたいと思います。
第2の死が本当の死
私たちは、入試や発表会や何か大事な本番を迎える前に、模試やリハーサルというものを行いますよね。
模試やリハーサルでの失敗は大切です。
それによって、本番でその失敗を繰り返さずに済むからです。
つまり、模試やリハーサルというものは、いわば本番で成功するための手段に過ぎず、そこでの結果は何ら重要ではありません。
聖書は肉体の死が、このリハーサルのようなもので、本当の死ではないと語っています。
本当の死は、その後に来る「第2の死」、言い換えれば「たましいの死」です。
この死こそ、私たちが本当に恐れるべき絶対に迎えてはならない死だと聖書は語っています。
では、この「第2の死」「たましいの死」とは、どんなものなのかご一緒に見ていきましょう。
「本当の死」とは、神様との分離
第1の死である肉体の死は、「肉体とたましいの分離」のことでした。
ここから聖書で言う所の「死」とは、「何かから離れること、分離すること」と定義することができます。
では、本当の死である第2の死は、私たちが一体何から離れるときに起こるのでしょう。
それは、私たちを造り、生かしてくださっているこの世界の創造主でおられる神様ご自身から離れてしまうことです。
この命の源である方から離れること、これが本当の死、滅びであると聖書は語っています。
神に生かされている私たち
スマートフォンは、コンセントにつないで充電しますよね。
バッテリーに蓄電しても、いつかは電池が切れてしまいますから必ず充電が必要です。
スマートフォンが自分で電気を作ることができないように、私たちも自分で命を得ることはできないので、この命の源である神様とつながっていなければ、それを失ってしまうのです。
クリスチャンは、「神様に生かされており、神様なしには存在することすら許されない」という世界観の中で生きていますから、その前提からすると、ある意味当然のことと言えます。
ですから、私たちに命を与えている神様とつながり続けることが、本当の命(聖書では「永遠の命」と呼ばれます)を得るための唯一の方法となるのです。
そして、リハーサルより本番での成功が大切なように、クリスチャンは神様とつながり続けることを肉体の命を保つことよりも優先することとしてとらえています。
これまで多くのクリスチャンが迫害の結果、死に至ってもなお、イエス・キリストを神だと信頼してやめようとしなかった理由は、この死生観に対する強い確信があったためです。
まとめると、聖書の教える人の生死というのは、肉体の生死とは全く別ものです。
生きるのか死ぬのかは、その人が、創造主なる神様とつながるか離れるか、どちらの道を選択するかによって決まると聖書は語っているのです。
以上がクリスチャンの死生観であり、これによって肉体の死という第1の死を恐れず生きていくことができるという特権が与えられていると私は思っています。
次回予告 命にいたる道とは
いかがだったでしょうか。
クリスチャンがどんな死生観をもっているのか。
肉体の死後にも、神様が与えてくださる永遠の命の希望を持っていることをお伝えしてきました。
これは、死後にもう一度愛する家族や恋人、友人、とも再会できる希望でもあります。
では、一体どうすれば命の源である神様とつながることができるのでしょうか。
次回、「命に至る道」と題して、創造主なる神様とつながるとは一体どういうことなのか、またそのために私たちがなすべきことについて聖書からご一緒に見ていきたいと思います。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
次回もお楽しみに。
