こんにちは。
管理人のヒロです。
ニュージーランドでは、学校が12月中旬から夏休みに入り、毎日子どもたちと一緒の状況で、なかなか記事が書けなかったこともあり、しばらくお休みしていました。
みなさんは、年末年始をいかがお過ごしでしたでしょうか。
今日は、夏休み中に、私たち家族に起こったあるショッキングな出来事について、まずはお話させていただきます。
息子の友人の死
それは、突然の知らせでした。
息子の友人の一人が、サマーキャンプ参加中に不慮の事故で亡くなったというのです。
その子と息子は、幼稚園時代からの友達で、6年間、学校のクラスメイトとして誕生日パーティーに招待し合ったり、地域のサッカークラブで一緒にプレーしたりと常日頃から良い関係を築いていました。
つい最近まで、サッカーチームの中心選手としてグラウンドを駆け回っていた彼が亡くなったと聞いても、全く現実味がなく、しばらく困惑した状態でした。
数日後、他の友人から「彼の体が家に帰ってきたので、会いに行ってあげて欲しい。」という連絡が入り、彼の家を訪ねました。
出迎えてくれた彼の両親は、気丈に振舞おうとしていましたが、こらえきれなくなり声を上げて泣いていました。
集まったたくさんの親族や友人たちも、彼との思い出を涙ながらに語り合っていました。
そして、彼の体と対面する時がやってきました。
心を落ち着けてから、部屋へと向かいます。
ドアを開けると、そこには生前彼が大事にしていた思い出の品々が所狭しと並べられていました。
幼少期から撮りためてきた家族や友人との記念写真、大事にしてきたおもちゃやスポーツ用品、たくさんの友人からの手紙ー。
その傍らに、幼いころから大事に使い続けてきたと思われる、ブランケットに包まれた彼の体が静かに横たわっていました。
目を閉じた美しい顔を見た瞬間、心の片隅にしまいこんでいたある思いが、ふつふつと沸き上がってきました。
「まるで眠っているようじゃないか。ひょっとしたら、もしかしたら、まだ・・・。」
この時、彼が亡くなってから既に1週間が経とうとしていましたから、そんな期待は持てないことは分かっていました。
それでも、私は「これは何かの間違いで、彼は死んでいない。」と思いたかったのです。
わずか13歳という若さでの彼の死は、私にとって全く受け入れがたく、やり切れない気持ちでいっぱいでした。
友人の父親という立場の私でさえ、こんなに辛く苦しいのであれば、家族の悲しみは一体どれほどかと思い、同い年の息子を持つ親として胸が締め付けられる思いでした。
なんとかして彼らを慰めたいところでしたが、「彼は戻って来ない」という厳然たる事実を前にして言葉もなく、共に彼の死を悲しむことしかできませんでした。
「死を前にして、人は全くの無力である」
このことを改めて実感したこの夏の出来事でした。
「死」について考える
家に帰ってからも、ことあるごとに、彼のことが思い出されました。
そして、ふと「死」をテーマに記事を書きたいと思いました。
彼の尊い命が失われたという事実から、死について自分なりに考えたことをこのブログに書き記すことが、彼のためにできることなのではないかと思ったのです。
そこで、今回と次回の2回にわたり、私が死について考えたことを大きく2つのポイントでお伝えします。
1つめは、「死とは何か」について客観的に考察していきます。
2つめに、クリスチャンとして、私が死をどのようにとらえているのかをご紹介していきたいと思います。
では、今日は1つ目の「死とは何か」についてご一緒に考えていただけたらと思います。
少し重たいテーマとなりますが、どうぞ最後までお付き合いください。
よろしくお願いします。
死とは何か
死は、私たちを支配している
私は、死は、全ての人間にとって避けることのできない最大の問題だと思います。
誕生を人生のスタートとするなら、人生のゴールは死だと言えます。
船旅にたとえるならば、今を生きている誰もが向かっている船の終着点、それが死です。
では、人生の終着点である「死」とは、一体どんなところでしょうか。
死ぬとき、人はどうなるのかは、誰も知ることができません。
死後の世界はどんな世界なのか、いや、そもそもそんな世界が存在するかどうかさえ、生きている間はわかりません。
船に乗っている私たちからは、その先がどうなっているのか全く分からない、まるで巨大な滝壺のようなものです。
私たちは、時間という水の流れに逆らうことはできず、確実にこの滝壺の方へと引き寄せられています。
どれだけお金を持っていても、どんな地位や名誉があっても、天才的な頭脳を持っていても、誰も「死」を避けることはできず、死に支配されているのです。
死は、この世の物を全て失うとき
死が巨大な滝壺に例えられるもう1つの理由があります。
それは、それまでに手に入れた全てを飲み込んでしまうという点において同じだからです。
この世の人生で一生懸命働いて手に入れた車や夢のマイホーム、学校や会社での競争で勝ち得た社会的な地位や名誉、船の上で手に入れたもの全てが、最後には「死」という滝壺に飲み込まれ、完全に失われてしまいます。
結局のところ、私たちは、何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいくのです。
「どんな人生を送っても、時が来れば必ず死を迎え、手に入れた物を全て失う」
これは、誰も否定することができない事実です。
イエス様も、約2000年前に人として地上に来られた際に、このように言われました。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。
そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。(マタイ福音書 16章 26節)
向かう先に目を向ける
私たちは、普段あまり「船が、どこへ向かっているか」気にすることはないように思います。
むしろ、私たちが日々考えていることは「船の上でどう快適に過ごすか」です。
食べること、買うこと、家のこと、恋愛、結婚、子育て、仕事、余暇の過ごし方、財産の管理や運用など、人生という船の上では考えることやすることがたくさんあって、毎日それらのことに夢中になっているため、行先のことなどほとんど目に入らないのです。
仮に、あなたが、岸辺から巨大な滝壺へ向かう船を発見したとしたら、乗っている人々に向かって大声でこう叫ぶでしょう。
「おい!その先には、巨大な滝壺があるぞ!早く逃げろ!」と。
それでも、船に乗っている人々が、あなたの声を気にも留めず、相変わらず船の上でどう快適に過ごすかばかり考えているような人たちだったら、あなたはどう思うでしょう。
「彼らは、あんなことをしている場合じゃない。今本当にしなければならないことをするべきだ。なぜ彼らは行先に目を向けないんだ。」と思うでしょう。
そんな彼らと同様、私たちも、あまり「死」については語りたがりません。
「死」は、不吉なもの、忌み嫌うべきものとして、無意識に避けてしまいがちです。
ひょっとすると、私たちは、肝心なはずの行先を見ないようにするために、毎日自分を忙しくさせているのかもしれません。
そうこうしているうちに時間は過ぎていきます。
抗うことの許されない水の流れは、一瞬たりとも止まることはなく、私たちは、その先が見えないほど深い死という滝壺へと少しずつ、でも確実に近づいているのです。
次回予告~クリスチャンの死生観とは~
いかがだったでしょうか。
一見理不尽に思えるような、こうした現実と向き合うとき、人生について様々な疑問が湧いてくるかと思います。
生きる意味って、一体何なのでしょうか。
私たちは、どこから来てどこへ向かっているのでしょうか。
死の先には、一体何が待っているのでしょうか。
これらの現在進行形で私たちが抱えている問題に対して、果たして回答はあるのでしょうか。
では、次回、クリスチャンの死に対する捉え方をご紹介しながら、これらの問いにお答えしていきたいと思います。
逃れられないはずの死を前にしても、依然として輝き続ける1つの希望をお分かちできたらと考えています。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
